ある日の日記。

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用事があって、渋谷。あまり通らない道を歩く。喫茶店の前を通った時ふと「あ、ここは知っているぞ」と思った。何かの時よく来ていた気がするが、いつの事かは忘れてしまった。何軒かそういう感じがする店があった。
良く知った感じ、親しみのある感じ、思いつめた感じ、など、その時々の感覚が街に点在している。

交差点を渡る時、ファミレスの二階の窓のテーブル席に、自分と誰かの姿が見えた気がした。うまく言えないけど、なぜかその時「あ、私は生きていたんだなあ」と思った。


気がつくと、実感や感情は二の次にして、「〜であるべき」「〜に違いない」という理屈を優先している事が多い。 
感情に優劣はないと何度も人に言うのは、何より私自身が、感じて良い感情と消すべき感情を分けているからだ。
感じた後、感じても良い感情かどうかをジャッジする。余計なステップ。

ファミレスのテーブル、喫茶店のテーブル、駅のベンチ。
そういった場所には、選り分けられ捨てられた方の感情がいつまでも消えずに貼り付いている。
見つけに行こう、とも思わない些細な感情の切れ端。それを時々街で見かける。


信号が青になる。手元のスマホで矢印が示す場所へと向かう。
切れ端を見かけた私、の、切れ端が多分、あの交差点に落ちた。