ある日の日記。
人の気持ちが潰れることについての話を、たったの二日間でかなりたくさん聞いた。私ではどうにも出来ない話。
苦々しい顔で話す相手に「そうか、難しいね」という風に言って別れたが、内心は全く穏やかではなかった。

感傷ではなくて、現実的な困難さや難しさについて考えていると自分が如何にものを知らないかというのを思い知らされる。ものを知らなくて、つまり出来ることが少ないということ。

作品を作るのも同じで、やればやるほどやれなさが目につく。でも作品はそれを改善するのもやりがいのひとつだ。
自分の成長。

でも社会的な問題は、改善への道が難しくて、いろんな意見を聞けば聞くほど何も言えなくなる。
制作と違って「じっくり取り組もう」とか言ってらんない話が多い。

道のりが難しい。じっくり取り組めば社会は変わる。
でも、社会の仕組みはじっくり変わっても、その仕組みの中で生まれた痛みは、仕組みの変化を待たずにジワジワと膿んでいく。
大げさかもしんないけど、社会が変わった時には、友達がもう何人か死んでたりする。
そのことが、仕方ないとはいえよくわからない。納得がいかない。虚しくてよくわからない。

そこからも立ち上がれるという、人の心の力に目をやればいいのだよなと思いつつ、ギリギリの痛みを今まさに持った人について考えるとき、必ず、自殺した友達の影がよぎってしまう。

「しんどそうだけど、まぁなんとかやってるらしいよ。」と言っていたらポーンと死んでしまった。
大丈夫じゃなさそうだけど、それなりに大丈夫そうで、大丈夫だろと思ってると結構あっけなく死んじゃうのだ。
あの感じがまた来るのかなぁと思うと、本当に何する気になれない。
あれに対して、出来ることなんかほとんどないから何もしたくない。

他人の荷物を引き受けることは出来ない。でも出来る事の少なさを思うと、多少希望が出てくる気がする。(だって、何か出来ると思ってると絶望するばっかだ!)
私は私一人分の人生を生きる。
それで半径何人かの周りの人を大切にするんだ。ちゃんと。
そうすることで周りの何人かがちょっとでもニコニコになれば、その人の周りの人もちょっとニコニコになるかもしんない。
たくさんの荷物は持たない。
そんで、ゆっくり歩こう。
手のひらに乗るだけのものが、手のひらから落ちないように。