昨日。
夜、とある、生き辛さ界隈のミーティングへ。

私自身、いわゆる家での引きこもり経験はないものの、長らく、人とのコミュニケーションをとることがかなり困難だった時があり、また今も、そこら辺、悩まなくなっただけでそんなに上手くやれない人なので、皆さんの話を聞いて頷くことしきり。


興味があったので参加を決め、「私は今はそこまで大変ではないけど」という心積もりで行ったんですが、話し始めてみたら、勤めていた頃のコミュ障エピソードなどなどが次から次へと口から出てくるので
「え?そこまで大変ではないって思っていた私はどこへ」という感じでした。

ゾンビ道場でもそうなんですが、自分が、自分の中にとどめておいて、もうすっかり納豆のごとく発酵させてしまっている事柄を、人に言うってすごいラクですね。
 
思いつめて「うううううう」となっていた事も、人に伝えてしまうと「あるあるー!」ってなったり、また、そうでなくても、私の場合「悩みすぎだろそれwww」みたいに笑い飛ばしてもらうと結構ラクになるところがあって。

「こんなことで悩んでいるのは私だけなんだろうか」
「悩むことは変だろうか」
と思うことが自分にとってストレス要因になっているのだなあ、なんて気付きました。
(ただ、その悩みというのが神経症だとか強迫的だとか、精神病質のことなので、誰にでも共感してもらえるわけではないのですが)


普段やっていることはいわゆるアーティスト活動という事だけれど、もう、アーティストは胸を張って堂々と、なんて、あれ、理屈ではわかってるんですが、私はもうすごい勢いで人のことが気になります。


今のように思い切り活動をする前は、ずっと「絵が描けるからいいっていうけど、コミュ二ケーションがつらいという事の方が辛いし、人と円滑にコミュニケーションできるなら絵なんかいらない」と本気で思っていました。

自分の世界観ががっちりあるというのは、ちょっと前の私には足かせでしかなくて、とにかく「絵は好きだけど、そこ以外の日常で尽く失敗る自分は好きでない!」というほうが強かったです。
 
ただ、いろいろな事を経ていくうちに、一般的な尺度での共感ではなく、私が私の思っていることをそのまま人に伝える、ということを通して人とつながることが出来るとわかって、そこからいろんなことが変わっていったような気がします。


今も「変だと思われるかな」とかすっごい考えるし、アーティストなんだからそこは売りになるじゃん、なんて言われることもあるけど「変だと思われるかな、って思うと不安だよねー!」みたいな言葉のほうが結構自分にとってはほっとする言葉だったりします。 
私は普段の発想として自己否定がデフォルトなので、不安感の共感という部分であっても肯定されると安心するんだと思います。


ざっくり言うと、飲み会とかで散々グチると、なんかどーでもよくなってくる、というのと似てますね多分。


不安要素ではあるけれど、その自己否定感の強さから「うううううううなんとか脱しなければああ」と言う感じで行動を起せていたり作品を作れていたりするのは、まあ、なんか、そんなに悪くない気がします。


先日、Club Doctorでのライブで、音楽の先輩にあたる方が
「音楽やってる人間はラクよ!あの野郎むかつくなあ、って思ったら、
「次の曲のネタにしてやれ!」って思うもん!」
と笑っていて、なんかそれ、いいなあ、と思いました。

自分って変かな、変な自分はいやだな、って思うのは苦しいけれど
自分は変であるかもしれないけれど、それは悪ではない。
と解ったときに、気持ちって少し楽になるのかもしれません。