画像1

現状、私の有様があんまりにもあんまりな一因に、昔の事をよく思い出すというのがあり、その為か、テレビやニュースでのトラウマや心の後遺症関連の話題にピリピリしている。

そういった言葉が飛び込んでくると、つい敏感になってなんだか爆発しそうになってしまう。

もちろん基本は自分の気持ちの痛みだけれど、それ以上に爆発しそうになるのは、自分がカムアウトしたことから、テレビで聞くような暴力的なナントカカントカがあまりにも身近に、友人に、日常的に起こっていることを知ったからだ。

日々報道される痛ましい話に対しニュースキャスターが「あってはならないことです」などと言う。
最近はそういう言葉にすら腹が立つ。

わかってくれとかそういう事ではなく、もっと醜い感情で、私は「被害者を助けよう」とか誰かのためになんとかとか言う人が、当事者でないことに対し苛立ちを持ってしまうんだ。(半分くらいは被害妄想だと思う。でもそれはいま問題でない)

なぜこの人たちにとって「社会問題」であることが、私や友人にとっては、「経験」なんだろう?

いや、違うよ。私のはさ、全然違うんだ。私は間違えているんだよ。
そういったことを論じる事は、これからについて有益だし、周知されることは必要であるし、語られる事は意味のある事だ。啓蒙だ。
わかっている。

わかっているが、テレビで語られている悲惨なことを経験した人の気持ちはどこへ行くんだろう?と思うと怒りを通り越して虚しくなってくるのだ。

これは自分が当事者であるが故の妬みによるものなのかとか、卑屈さなのかとか考えたけど、私の気持ちについて言えば、置き去りにされたという感覚が強い。

親しい友人が泣き笑いみたいな顔で話した酷い体験を、他人事としてデータで話す、テレビの向こう側の人。

「こんなことが繰り返されてはいけません」。

今も鮮明に続いており、何度も何度も話して嘆いて悩んでいる葛藤や痛みが、報道の中では、ただの事例として語られている。
そのギャップにあたまがついていかない。

踏みにじられた心は晒し者じゃない。被害者は研究のモルモットじゃない。
お願いだから、暴力を食い止めるための暴力はやめてくれ。

悲しいことはなくなって欲しい。でも、それを大々的に語られる事にどこか胸が痛む。

鋭利な針を排除するためには、より強靭な剣を用意するしかないんだろうか。
そのやり方には愛があるんだろうか?

針の先端をそっと包むようにして、摘みとる。
そんな風に出来たらいいと思う。少なくとも私はそうありたいと思う。
甘ったるい理想論なんだろうということは、分かっているんだけども。