いろんな話を聞いたり考えたり、感じたり思い出したりしていて、
ああ、やっぱり自分は怒っているのだなあ、と、思った。

というのも、感情を閉じ込めることから抑うつ状態になる、
みたいな事を先日、先生に言われたので「あ、怒りだ、これだー」と思って
あは、よかった、そうそう。って思ったからこうして書いてみているのだけど。



なんか、大きな力が、人を踏みにじるような話を多く聞く感じがする。
踏みにじるというか、奪っていく感じ。
自分が「自分」であることを奪われた時の喪失感や、過去に自分が、理不尽に踏みにじられたと感じた経験とかをといろんな情報を被らせてしまって、気が立ってしまった。
ちょっと前のことだけど、友達の家に行った。
「なんか」を持った人たち。
下らないことで爆笑して、ばかみたいに笑った。
げらげら笑うあの子の手首の傷が気になった。やせた顔が気になった。

笑って、笑って、もう何日分も楽しんだ感じがした。
そして私たちはしばらくまた、歯軋りするような日常や、それすら出来ないような無力感の中に戻るのだなとふと思って「まあ、うちら、どうしよもねーなー!」と言って、また笑った。

みんなと別れて、平日の昼間の街を歩いて、なんだか、現実から隔離されているような感覚に陥った。
普通に暮らしていたらどのくらい、どんな人たちがどのように、どの程度、目に入るものなんだろう。

「ねえ、私たちの姿は、あなたに、見えていますか」
 

寝返りをうつことさえままならないような胸の痛みで、家から出られなかったり、
見えないものに怯えて毎日を過ごす気持ちが、私の中にはある。
アタマの中で批判の声が止まず、叫びだしたくなることがある。

どうしたらいい、これはどこへやったらいい。この枷をもって、どこへ行けるんだ。
悩むけれど、悩むのだけど、若い頃は許されていたこともね、どんどん許されなくなっていくんだよ。
でも、変われない。変われないのに、足場がどんどん狭まっていく。

「ねえ、その年でどうするの」
そんなこと、考えないわけないだろ。

「進む気がないんじゃないの」
それだけだったら苦しんだりしねーよ。

「将来のことは考えてるの」
今、この状況で生きてるだけで許してくれよ。


辛辣な言葉には耐性がついてしまった。いちいち傷ついていたら何もできない。
「ねーww いやいやいや、ほんとに」と笑ったりする。
本当は、憤る。憤る気持ちにふたをして生きる。そうしないと生きていけない。
だけど、本当は、それも伝えないといけない。
解ってほしかったら、開示しなければ。

憤る、傷つく、いらだつ。
それをちゃんと、伝えないといけない。 だけど、難しいよなかなか。
理解のない言葉が返ってくるかもしれない、それがとても怖い。

ただ、ねえ、離れていても、同じように、「何か」を抱えたまま生きている仲間がいる。
そう思うと、ちょっと楽なんだ。
馴れ合いだとか、傷のなめあいって、批判するか?
いいじゃないか。
死ぬな、って言うなら、傷を舐めあって生きていることくらい、許せよ。


動けない人がいる。無為に過ぎる日々に恐怖を感じて死を望む人がいる。
知っている。 
そこで、さ。
私はまだきっと、生き残りの兵士みたいなさ、ちょっとだけ希望もった人だと思うんだ。

だからさ、ちょっと、特攻隊みたいな気持ちがするんだ。
表現という武器を持っているわたし、は。
その武器を片手に、痛みや憤りを胸に持った「私」が、進んでいくことが、
誰かの何かになるんじゃないかと。
おごっているかもしれないけれど、そんな思いを持っている。


時々倒れたり、いらだったり、失敗したりもする。
だけど、病気をカムアウトして人とかかわって、同じ痛みを持った人のことをたくさん知って、
自分の痛みも消えなくて、それでも進むこと、やめないこと、少しずつでも
歩を進めること、それが、なんだか、私の使命のような、そんな気持ちがするんだ。

「私が引き受けるよ、私はあなたの事わかるよ。」

そんな大それたことは言えない。ごめんなさい。
私はあなたではないし、あなたは私ではないから、そこまではわからない。
知らない荷物を背負うことは出来ない。

だけど「荷物」を持った人のひとりとして、生きること。
それは何か、意味があることなんじゃないかと、そんな感じがします。
 
 
ただのおぼえがきでした。
おやすみなさい。